« 2009年3月 | トップページ

2009年4月

チンパンジーは何故人間に守られて生き延びているのか

今日はちょっと難しいお話。

出自は私の大好きな漫画、魔人探偵脳噛ネウロから。

タイトルは主題ではないですよ。

始まりの言葉・・・といったところでしょうか。

「何故チンパンジーは人間に守られて生き残っているのか?」

理由は簡単。

頭が悪かったから。

もっと優れた類人猿はかつて存在していました。

何故、現代にはチンパンジー以上の類人猿がいないのか?

理由は簡単。

頭が良かったから。

彼等は当時のヒトに打ち滅ぼされてしまいました。

この話の主題は

「進化の隣人」です。

漫画では「近いほど怖い」という話が絵を交えて話されます。

ここはテキストのみのブログなのでもうちょっと詳しく書いてみましょうね。

仮に我々と近い類人猿がいたとしましょう。

もちろん。我々よりは、進化の段階が一つか二つ遅れている前提で、

知能的には・・そうですね。

4つか5つの人の子供と同じくらいだとしましょう。

身体能力的には成人で、我々よりも少し劣る程度の、「野生のヒト」です。

想像してみてください。

その進化の隣人の姿を。

想像してみてください。

その進化の隣人とのコミュニケーションの難しさを。

想像してみてください。

その進化の隣人と出会うシチュエーションを。

想像してみてください。

その進化の隣人のこちらに対する感情を。

とても同じ空間に二人きりではいられません。

だから、過去のヒトは滅ぼしたのです。

我々と近い存在で異なる存在を。

過去、侵略を繰り返してきた歴史を我々ヒトはもっています。

日本の「妖怪」

北欧の伝説の「ゴブリン」

もしかしたら、彼等もヒトにあらざるモノ、

「進化の隣人」の生き残りだったのかもしれません。

現代であれば、そのような事は考えにくいかもしれません。

我々は知能が高く。異なる種族(白人、黒人、黄色人種等)でも手を取り合って

生活しています。

それは異なる種族の存在が深く認知され、影響範囲がわかっているからです。

ただし、今ここで語った「現代」は、我々よりも劣る進化の隣人の存在についてです。

我々の想像を超える知能と肉体を持ち合わせた進化の隣人が表れた場合。

彼等は我々の予想や予測を超える対処をしてくるでしょう。

それは、明日か、百年後か。

| | コメント (12)

諦めるな

諦めたらそこでおしまいです。

何事も。

ありふれた言葉ですが、

おしまいなのです。

その先はあきらめ続けている限り、

決して訪れません。

例えば一人の男が今、困難に立ち向かっているとしましょう。

そして男は困難の途方もなさに、膝をつき、肩を落とし、諦めます。

男は周囲にこう言うでしょう。

「私は挑戦したが無理だった。だから私にはもう無理なのだ。」

それで?

その言葉に何の意味があるのでしょうか?

私からすれば、このたとえ話の男の言葉は自分自身の可能性を永久に閉ざす言葉に他なりません。

どのくらい挑戦したのでしょうね。

1週間?

3ヶ月?

一年?

十年?

どれだけ時間とエネルギーを費やそうと同じ事。

自分自身で諦めを正当化してしまえる努力にどれほどの価値がありましょうか。

まして、それを「やってみたが」などと口にすることもおこがましい。

自分の行いを今後も含めて最大限と評する事が出来るのは愚か者のすることです。

彼は負けたのです。

これが自分自身に負けるという事なのです。

力のなさを実感しなさい。

負けを認めなさい。

負けを認めたくなくば、更なる努力をしなさい。

負け犬が開く口などはありえないのですから。

但し、

時間と比較して、

今これに時間を費やす事を一時的に後回しにすることは良い事でしょう。

それは諦めではなく前進なのですから。

山頂に至る道は一つではないのですから。

今勝てぬのなら、手に入れられないのなら、

勝てる力、手に入れられるだけの力を携えて、

また挑戦すればいいじゃないですか。

そう言う私は、

一時的に後回しにしているもの、た~くさんありますが、何か?

| | コメント (0)

無個性な結末

ボーダーを越える。

ボーダーをなくす。

ボーダーは人が作ったモノだ。

例えば、この世界のどこにも国境などはなくて、

例えば、この世界のどこにも貴方達と私の違いを認めるものは存在しないのだ。

「差別を無くしたい」

最初はそう思っていた。

比べる、比較する事で、人は前に進む事が出来る。

それと同時に差を生む。

そんなのはたくさんなんだ。

見ていていたたまれないし、自分がそんな立場になるなんて真っ平ごめん。

私から始めよう、行動で示そう。

「ボーダーをなくす」

そのうちそう思うようになった。

私と貴方達の違いは?会社?生まれの違い?年齢?国籍?性別?

必要ないさ。

私と貴方達が会話をするのに必要ではないのさ。

私という人と貴方という人。

それで十分。

「無個性な結末」

ふと気が付いた。

それでは、個性を殺してしまうパターンが存在する。

貴方達も私も同じでは、何も進まない。

それでは発展は生み出されないじゃないか。

それではいけない。

「あんたと俺は違うのさ」

私はいつしかそう『言う』ようになった。

良くも悪くも自身の個性を言葉に出すようにした。

そして、良くも悪くも相手の個性をコッソリ『認めている』。

その結果お互いの不合理を感じてモメる事もある。

でもそれでいい。

それは個性の表れなのだから。

相手の存在を消してしまおうなどと考えなければ、

それは猫がじゃれている事と同じだから。

但し

これは友人に対してのみ。

外敵は別。

| | コメント (0)

« 2009年3月 | トップページ